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日本山岳会 千葉支部

ウォーキング かずさ国府のロマンを訪れて

 6月4日(土)晴れ 参加者 11名
  雹また雷雨が各地にあり、不安定な天気が予想されるなか、週間天気予報の「快晴」は、ウォーキング日の当日だけであった。予想通り、時折気持ちの良い風もあり、皆さんと楽しいウォーキングを満喫できた。
  コースは、市原市内に居住して、当地の史跡、遺跡に知識豊富なTAさんに依頼したところ、コース策定の御快諾を頂いた。JR五井駅に集合した10人は、TAさんからコースについて説明をいただいた後にスタートした。
 今まで、各地の施設を「見て楽しむ」ウォーキングであったが、今回は「史跡、遺跡を観て学び楽しむ」ウォーキングである。歩き出してまもなくの大通りは「更級通り」という名が付けられていて、直ぐ頭は平安時代にタイムスリップした。
 奈良の条里制もこのようなものであったかと想像させる整然と区画割りされた広大な田の先には、聖武天皇が国分寺、国分尼寺を置き、平安時代の国司が置かれたであろう小高い緑の丘が見える。
ここ上総の国は古墳が多い地である。温暖で海が近くて地勢も穏やかな住みやすい地であったので、古くから有力な豪族が誕生していたのであろう。丘の上の史蹟地域に入ってまず五世紀の円墳である「稲荷台1号墳」へ。この古墳を有名にしたのは、発掘された「『王賜』銘鉄剣」だそうだ。残念ながら刀剣の文字が少なく、学術的にも研究が進んでいないので文化財としての指定はないが、展開によっては、さきたま古墳群の「ワカタケル大王」(雄略天皇)に仕えた豪族の鉄剣や奈良石上神社に伝わる七支刀(いずれも国宝)に準ずる古墳時代の貴重な史料としての力を秘めている。
この先のウォーキングは、市原歴史博物館(建設は完了していて近日開館予定)→スケールの大きい上総国分尼寺跡(聖武天皇の命によって全国60余カ所に造られた国立寺院の1院。寺域は全国最大規模で、資料館のジオラマは一件の価値がある)→祇園原貝塚(縄文後期1000年の村跡)→諏訪神社→瓦焼窯→神門五号墳(東日本最古級の古墳)→上総国分寺跡(60Mを超える七重塔の巨大な礎石が残る)をそれぞれ巡り、ポイントの地では、郷土を愛し誇りを持つTAさんから熱心な説明を頂いた。
このコース設定は、発掘にも参加した事がある地元のTAさんならではで、まとめ役の小生では叶わぬことであった。TAさんには深謝するしかない。我が山岳会には、有能な人が沢山いる。困ったときには、その人たちのご協力を得ることで、集まりが「楽しくなる」ことも学んだ。
当日の軌跡は添付の通りで、五井出発10時で、五井駅に戻ったのは16時40分、歩行距離15.4キロ、消費カロリー1251kcalだったが、果たして、打ち上げの1杯がこのカロリーの消費量を帳消にしていなかったかどうか。 ㋙㋒

熱心に説明してくれたTAさん

薬師堂前で本日の参加者

復元された国分寺薬師堂

GPSの軌跡ログ。よく歩きました

≪当日参加の会員からのメール感想文≫
 昨日は、天候にも恵まれ本当に楽しく過ごさせていただきました。TA様には詳細にガイドいただきありがとうございました。
 いつも五井あたりは通過地点で良く通っていますが、こんなビックリするような歴史が隠されているのを目のあたりにして感激しました。まるで奈良、飛鳥あたりを歩いているかのような錯覚に陥りました。特に国分尼寺のスケールとバブル期に住宅地として開発されずに遺跡がそのまま保存されてきたというのは感激で、研究が進めば、さきたま古墳群と並んで、関東地方における古墳時代から奈良時代にかけての日本史の更なる解明にも大きく役立つことでしょう。
 もう一度、もっとたくさんの予備知識を入れてゆっくりと訪問しようと思っています。奈良地方に土地勘を持っている私には、懐かしくもあり、またヤマトの勢力がこの地にまで、こんなに浸透していたのかと思うと感慨の至りです。
 歩いたGPS軌跡を入れておきます。軌跡が拍車を付けた西部劇のカーボーイの靴の様で面白いですね。歩行距離は15.4キロ、最低高度2M、最高高度29Mでした。
 帰って直ぐ、更級日記を読み直しました。主人公は上総の国司となって赴任した父、菅原孝標と一緒にここ市原に住んでいましたが、13歳のとき、父の任が終わったのを機に京へ戻りました。西暦1020年9月初めに出発して12月初めにやっと京に入りました。舟で国司を発ったと思っていましたが、「いまたち」に移ったというので、出発場所を市原の北にある「馬立」に選んで出発したようで、浜野、黒砂と進んで松戸あたりで江戸川を渡って武蔵国を経由したことが記されています。三ヶ月というから大変な旅だったのでしょうね。

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