日本山岳会山形支部のあゆみ |
山形支部のあゆみ(60周年記念誌から抜粋) 渡辺 誠(12190) 支部設立の目的ははっきりしているが、どのような方々が発起人になられたか記録はないが、後藤幹次氏(1024) 、篠田理策氏(1388) 、三浦敏雄氏(1587) 、畠中善哉氏(2102) 、斎藤重蔵氏(2294)、齋藤清吉氏(2295)、菅原粂蔵氏(2437)、村上勝太郎氏(3049)の8名と推測される。当時は県内に会員が少なく、支部設立のため最初に手始めたのが会員の募集であり、特に後藤幹次氏が、山形、酒田、鶴岡など県内各地の山岳団体に呼びかけて奔走されたと云われている。 昭和22年6月時点で会員は8名だったのが、翌23年10月に一挙に12名が連番で入会していることから、おそらく昭和23年前後に支部の発足を計画したものと思われるが、この時点では烏海山の国体登山は判明していたとは思えず、むしろ烏海山の国体登山の誘致活動も併せて進めたと推測するのが妥当であろう。昭和25年4月29日、月山山麓志津の旅館「ほていや」で山形支部設立総会を開催し、後藤幹次氏を初代支部長にして山形支部が誕生した。翌30日に月山頂上で支部の発会式を行なったと云われているが支部の記録は無い。設立時の会員は27名になっている。 日本山岳会の機関紙「會報150 1950年5月」を見ると、会務報告に「かねて在山形市、後藤より協議のあった支部設立準備完了し4月29日発会式挙行の運びとなり、藤島、藤井、原を派遣決定」、「山形支部創立記念山行、月山スキー行、参加者人選」また「4月29日、月山山麓志津において山形支部設立」、「4月30日、月山頂上において山形支部発会式、本会より藤島外9名、支部後藤外約30名参加、盛会裡に終了」とある。更に年度役員に「4月19日役員総会決定事項として支部長在職者評議員・後藤幹次(山形)」が載っている。 以上のことから、昭和25年4月29日は「山形支部設立の日」であり、翌日の30日は月山頂上での「支部発会式の日」だったと断言できる。また支部長の人選については、支部設立の事前協議の中で後藤幹次氏の就任は既定方針であったと推測される。 当時、日本山岳会の支部は、関西、越後、石川、東京、信濃、福島、富山、山梨、北海道、山陰、静岡の11支部があり、山形支部の設立は12番目であった。 詳細は山形支部60周年記念誌を参照してください。 |