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越後支部

焼峰山山行報告

焼峰山山行報告

2025年(令和7年)11月8日(土)
参加メンバー リーダー 廣井博行  サブリーダー 知野隼人
       久保田千歳  関裕子  江口健  田辺忠史  石井和春

 杉滝岩に行く途中、車でトンネルを抜けると前後に細長い内ノ倉ダム湖の入り口に至る。湖面の奥に、堂々とそして、秀麗な山が 焼峰山 1.085m である。真正面の尾根が今回のルートである「滝谷コース」。右側の稜線は、加治川治水ダム登山口の「袖の沢コース」。左側の稜線は、内ノ倉登山口(現在は廃道)の内ノ倉コースである。登山口へのアプローチは、かなり違うがどのコースも3時間程度で頂上に至る。
 焼峰山は、新発田市街地の東南、内ノ倉川と加治川(飯豊川)に挟まれている。最近、登山者は減少し静かな山となっている。しかし、赤谷線の東赤谷駅があった頃、昭和30年40年中頃までは交通の便がよく、新発田近郊では一番人気の山であったそうだ。1971年(昭46)、二王子神社まで車道が開通する。しかし、二王子神社も旧登拝路を無視され、山腹を崩し、昔を偲ぶよし無くなり、北越信仰界の覇王としての立場も弱りつつある。
 さて、当日は、風も無く天候にも恵まれ、快適な登山日和だった。赤谷郵便局7時集合だが、15分前には全員7名揃い出発。県道352号線から、滝谷森林公園の看板がある所を左折して滝谷集落へ入る。「焼峰山」の標識に従い、道は細いが登山口へ。更に250m 奥に駐車スペース有。
 登山口には、「焼峰山 頂3.7㎞」や「スタート 標高235m」という新発田高校登山部OB組織 「かいらぎ山岳会」が作成した標柱があり、これは9.5合目まで続く。有難い。
 登り始めは杉林の中を行くが、「1合目 標高320m」より、ブナなどの灌木帯となる。1時間ほど歩くと視界の開けた場所に出る。「うぐいす平」である。前方には修蔵峰と焼峰山山頂、右手には蒜場山が望まれる。いずれも鮮やかな彩りの紅葉盛りである。ここで小休止。
 ここから急登が始まる。歩きにくい所やヤセ尾根などには鎖やロープ等が設置されているので特に危険な所はない。慎重に登り、標識「清水釜 880m」の水場に着く。昔、炭焼きの釜があったという。そして20分程歩くと、「9合目 標高980m」の修蔵峰 である。
「昭和32年12月30日 本田修蔵 君、赤津山よりの帰途ここに眠る」という立派な追悼碑(新発田高等学校山岳部作成)がある。
 ここから山頂は目の前に。低木の中をしばらく進み、急登すると焼峰山の頂上である。更に稜線を10分程歩くと「焼峰の頭 1104m」に着く。ここで袖の沢コースと合流する。ここで昼食、記念撮影。
 さて、ここからの眺めは最高のパノラマである。北側は二王子岳、東側は飯豊連峰。赤津山から二ツ峰そして門内岳へ、さらに北股岳、大日岳。南側は蒜場山、その奥に五頭連峰。西側は内ノ倉ダム湖の全周が見られた。飯豊連峰は全体に薄く白化粧し、全山が黄色赤色に染められ、青色の空に映えて惚れ惚れする素晴らしい景色でした。太陽光線によるのか南側の沢の一部分では黄色の紅葉が特に光り輝いていた。
 40分程の休憩後、同じルートを下山。下山時も紅葉を見飽きるほどたのしみ、登山口に計画書どおりのどんぴしゃり14時到着。メンバーの皆さん、大変お世話になりました。ありがとうございました。
 1950年(昭26)飯豊山が磐梯朝日国立公園に指定された。また、1964年(昭39)6月「新潟国体山岳競技」等で、飯豊山への登山道、縦走路、山小屋 等が設定された。福島県側からの飯豊本山への登拝路を除き、この以前に新潟県側から飯豊連峰に挑戦され続けた 我が越後支部歴代会長、 藤島 玄氏、佐藤一栄氏、五十嵐篤雄氏等の脚力・登攀力は本当に驚異に値する。凄い。偉大なる先輩達である。
 とは言え、焼峰山・飯豊山への登山道の成立ちも忘れないように。赤谷マタギ衆が奥深く炭焼きのため、山野に入り、出来上がった炭を運ぶために内ノ倉川と加治川(飯豊川)沿いにリヤカーが通れる程の道を開いたこと。残雪時、マタギ衆の熊狩りの猟場であったこと。最も集落を栄えさせてくれた蒜場山等からの 鉄・銅 鉱石の採掘運搬のため、国鉄赤谷線の東赤谷駅への延長や鉱山鉄道の設置。色々なつながりにより今現在の登山を楽しめるのだ。ただ先人達に感謝したい。

江口 健

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